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会員誌「国宝倶楽部」
苦難を越えて受け継がれる土佐和紙
 
【略歴】
1931(昭和6)年2月17日生まれ
1972(昭和47)年、土佐典具帖紙保存会会員
1977(昭和52)年、経済産業大臣指定伝統的工芸品「土佐和紙」の伝統工芸士に認定
1991(平成3)年、労働大臣表彰
1993(平成5)年、勲六等瑞宝章受賞
1995(平成7)年、土佐和紙工芸村で研修生を指導
2001(平成13)年、重要無形文化財保持者に認定
 
紙漉き職人になったきっかけ

私はのん気な楽天家です。でも、いざ紙を漉きだしたら性格が変わるんです。 紙漉きにかけては、厳しい人間になります」と、濱田さんは柔和な笑顔で語る。その表情からは、頑固で厳しい職人の顔は想像できない。典具帖紙は中世に美濃で作られた紙で、明治初期に土佐はへ伝わり、吉井源太という人がその礎を築いた。濱田さんは、その伝統を受け継ぐ紙漉き家に生まれた。そして、二十歳のとき、父親にすすめられて紙漉きの道に入ったという。

いまだに誰も真似できない

二十五歳の頃、従来の漉き方を百パーセント踏襲しているだけではいけないと感じ、どうせ同じ紙を漉くなら親父より、 ほかの職人さんより、まっとうな良い紙を漉きたいと思いました。それで新しい漉き方を独自に編み出してきました」。 濱田さんの漉き方は漉き船のなかで簀桁を激しく揺らせて、水を勢いよく大波のように巻き上げるダイナミックなものだ。「良い紙というのは、他のいらないものがくっついていない、一枚のきれいな紙をいいます。漉いた紙に、溶け残った原料がポツポツとひっつかないよう、漉き方でいかになくすかということを研究してきたのです。私の技術を盗もうとした人はたくさんいますが、成功した職人はおりません」。

原料は純国産

土佐典具帖紙は薄さと丈夫さが特徴である。どんなにクシャクシャにしても破れることはなく、クシャクシャに揉むほど、逆に柔らかくなってくる。「私の紙には不純物が含まれておりません。だから、コシが強いのです。普通の紙であれば、不純物が含まれているせいで耐用年数は短いものです。私は楮やとろろ葵などこの地でとれた原材料以外は絶対に使いませんし、繊維一本一本までアクを抜いて不純物を除いています。ただ紙を漉けばいいというのではなく、漉くまでにやらなければならないことが、たくさんあります」。

自分がやらねば誰がやる

濱田さんが紙を漉きはじめた昭和二十年代半ば、漉いた紙はタイプライター用の原紙として海外に輸出され、いの町は全盛期を迎えていた。しかし、昭和三十年代に入ると機械化の波が押し寄せ、手漉きは一気に衰退に向かう。濱田さんのまわりの漉き屋も、多くが廃業に追い込まれたり、漉く紙の種類を変えていくことを余儀なくされた。「ここで私がやめれば、土佐典具帖紙は幻の紙になってしまうと思いました。私の代でこの伝統が途絶えることのないよう、売れようが売れまいが、とにかくこの紙を守ろうと思いました」。

 
再び脚光を浴びる

伝統を守るということは、並大抵の努力で果たせるものではなかった。「本当にやる気があれば、自分なりに工夫をして紙を作るものです。全盛期と違い、どんどん紙が売れる時代ではなくなったからこそ、自分で研究をして、いろいろな紙を開発していかなければなりません」。濱田さんは、それまで白一色だった紙に染色を施そうと顔料を開発した。その紙がちぎり絵や押し花に使用されるようになり、濱田さんの漉く紙は、脚光を浴び始めたのである。「私と同じように、紙に色をつけようと挑戦している人はたくさんいましたが、皆、途中でやめてしまいました。私も何度も失敗しましたが、試行錯誤の末、ようやく顔料を開発する事が出来たのです。やはり、人の上をいこうと思ったら、苦労をしなければいけませんね」。

自分で考えるしかない

土佐店具帖紙を守り、さまざまな技法を生み出してきた濱田さんが、次に取り組みたいことは何かとたずねると、やはり後継者の育成に話が及んだ。「もう私も七十六歳ですから、後継者の指導に尽くしたいと思っております。私は紙を漉けといったことはありませんが、孫が私の跡を継いで紙を漉きたいといってくれました。やはり遊び半分ではできない仕事ですし、紙漉きで食べていけるようになるには十年はかかります。 また弟子には水の振り方をああしろ、桁の持ち方はこうしろとはいいません。私よりも上に行くには、弟子も自分で考えるしかないと思います。私は自分がたどってきた道をそのまま弟子に伝えています。それでも弟子には時々、なかなか良い紙ができたじゃないかと褒めてやるんです。これも弟子への期待のうちですかね」。紙を漉くことにかけては厳しい職人の人間的な優しさが垣間見えた。(聞き手 冨田浩章)