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2007.4.22

お寺の傷痕


東寺のつづきです。創建から1200年以上も経ったお寺だけあって、小さなお堂や柱ひとつにも、すごい過去が隠されていました。 境内の食堂(じきどう)と講堂の間にふたつ並んで夜叉神堂があります。売店の裏にある、そのうえ、目の前には国宝の講堂がある。 これらの理由で、夜叉神堂は目に入らない方もおおいはず。でも、そのお堂をのぞくと・・・。

夜叉神が、薄暗い堂内に、こちらをにらんでいらっしゃる。 (ぶるッ)写真の方は、雄夜叉(おすやしゃ)。昔は、この夜叉神にお参りすると歯痛が治るといわれたとのこと。いくら歯が痛くても、この形相、かなり怖い。歯痛を取るか、夜叉神のもとに出向くか、究極の選択です。 いま、見ても怖いのですから、昔の人も怖かった。平安時代、夜叉神は、お寺の南大門の外にいらっしゃったそうです。
京をめざした旅人が夕暮れどき、東寺の南大門の前を通りがかると、夕陽に赤く染まった夜叉神が、襲いかからんばかりの形相でにらんでいる。 ぎゃー、化け物、おのれ何者だぁー旅人は、持っていた槍や杖で、この夜叉神を突き刺した。それも一人や二人ではなかった。 その傷痕が、のどから胸部へと無数にあいた穴だといわれています。

さて、もうひとつ。いまから670年ほど前のできごとです。ときは南北朝時代。足利尊氏と新田義貞の戦いも佳境に入ったときのこと。 尊氏は陣を東寺に、新田軍は、陣を比叡山においていました。両軍は市中で激しく戦っていました。
ある日、足利軍が劣勢に転じ、東寺に退却を余儀なくされました。それを追って、新田軍が東寺に向かいました。 足利軍の最後の兵が東寺の東大門になだれ込むやいなや門は閉められ、 バシ、バシ、バシ。
新田軍が射った矢が東大門にいくつも刺さりました。
その矢の痕が、これ→
写真では見ずらいですが、肉眼でははっきり見えます。東大門、道路側からご覧いただけます。

時代は、いまから400年あまり前。ずっと今に近いたので、槍でも矢でもなく、火縄銃の痕をご紹介します。 高野山で修行をしていた僧、覚鑁(かくばん)が隆盛の糸口をつくった和歌山県の根来寺(ねごろじ)。
室町時代には、山内の寺院は2700寺以上あり、領地は72万石。大名なみの勢力を誇ったといわれます。
それがどうも、気にくわなかったのかどうか。豊臣秀吉は紀州征伐を開始。根来寺に迫った豊臣軍は、火縄銃で、根来寺の大塔めがけ、バン、バン、バン。
それが
←これ。



弾痕がある、大塔は、いま国宝となっています。
この写真が→
国宝の大塔。

最後に。
1200年前の夜叉神につけられた槍などの痕、670年あまり前の東大門にあいた新田軍の矢の痕、400年あまり前の豊臣軍の火縄銃の弾痕ときたので、現代の刀傷。

いまから37年ほど前。作家の三島由紀夫が自衛隊の東部方面総監部(いまの市谷駐屯地)の総監室に訪問、総監を人質にとってろう城したときのこと。騒ぎを聞いて駆けつけた幕僚たちにむかって日本刀で応戦、もみ合った際についた、刀傷です。
歴史が積み重なっていく様子を、歴史が「刻まれる」といいますが、まさに、「刻まれた」痕が、たくさん残っているものですね。


 

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